ぶっき Library... 村上春樹

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風の歌を聴け (村上春樹)

現時点まででは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『ダンス・ダンス・ダンス』を村上氏の創作力の頂点と考えていますが、これらに迫る魅力を感じさせてくれるのがデビュー作『風の歌を聴け』です。

この作品には内的にも外的にも展開らしきものがなくて、描かれているのは基本的に気分とか雰囲気とかノリとか世界観。
もう少し理屈っぽく言うと、この作品では対象との距離感ということがテーマになっていて、語り手と対象(他人とか人生とか世の中とかあらゆるもの)との距離感(実質的には作者と対象との距離感)を浮き彫りにするのが主眼なので、別に物語を展開させる必要は無いし、むしろ展開させない方が目的を効果的に果たせそう。奇妙なテーマのようだけど、おそらく村上作品の底流にある基本テーマの1つで、この作品ではそれが端的に扱われています。

ドラマとしての楽しみはありませんが、話をでっち上げる必要がないぶん作者の美意識とか感性がダイレクトに投影されていて、文章の浸透力は水際立っているし、その雰囲気は軽やかだけど濃厚です。
登場人物たちにキャラと言えるほどのものは無くて、作品世界を構成する主要パーツとして存在感だけが与えられています。どんな人間で何を考えているのか分からないしちょっと作り物っぽいけどやけに存在感がある、という人物の描き方は以後の作品にも引き継がれていますが、以後の作品を知った今でも『風の歌を聴け』の人物描写は新鮮です。

長編としてはこじんまりしているし村上氏の持ち味の一部しか発揮されていないけど、作品単独としての洗練度はかなり高いし、文章の純度や浸透力の点で傑出していると思います。久しぶりに再読したけれど、褪色をまったく感じませんでした。

村上氏の長編小説の中では、物語の構築性では『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、内面のシリアスな描写では『ダンス・ダンス・ダンス』(ただし序盤のみ)、美意識とか感性の魅力では『風の歌を聴け』、というのがわたしの中での御三家です。

《ささやかでひとりよがりな補足》

この作品はデビュー作だけに村上氏のスタイルの原型があると思います。なので、わたしなりの読み方・感じ方をご紹介しておきます。

第一章がこの作品の取扱説明書になっていて、この作家らしく几帳面(笑)

第一章によると、文章を書くということは「自分と自分をとりまく事物との距離を確認すること」であるけれど、「認識しようとつとめるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわって」いて「その深さを測りきることはできない」とあります。
哲学者とか心理学者なら理屈でこの「深い淵」を乗り越えようとするのかもしれませんが、作家=表現者である村上氏は「深い淵」をそのままに、すなわち認識を超えた状態のままで描こうとしています。言い換えれば、「深い淵」の存在感は示すけど、存在自体は描かれていません。

このスタンスは『風の歌を聴け』限定ではなくて、村上氏の創作姿勢の根底をなしていると考えます。村上作品を読んでいると、説明不足、脈絡が無いなどとしばしば思わされますが、なるべくしてなっていると言えそうです。

頭脳に自信のある読者はそうした「深い淵」に説明を加えたり脈絡をつけようとしがちですが、作品を鑑賞するという意味では作者の「深い淵」の表現を楽しむことが先決です。
実際、認識を超えたものの存在感は示すけどそれ自体については語らない、というのはかなり難しいことで、ある意味作家の究極の目標の1つでもあることで、作家はそこに心血を注いでいるわけです。

作者が「ただのリストだ」と第一章で断っているように、物語として作りこまれていないこの作品では、一夏を舞台にさまざまな「深い淵」が列記されています。というか、「深い淵」自体は正体不明なので、いくつあるのか分からないですけど・・・

だから、描かれていることよりも、存在を感じるけれど描かれていないこと、に軸足を置いて読むのが作者の望む読み方だと思います。こう書くとクイズかロールシャッハ・テストみたいですが、要するに「深い淵」の存在を感じればいいのだと思います。ひたすら感じて、その感覚を自分の内部で消化する(昇華させる、ではない)。
たとえば、「僕」と登場人物たちの会話、過去に付き合った女の子たちとのエピソード、鼠の小説のストーリー等には他人との間に存在する「深い淵」が感じ取れるし、無口であった「僕」の少年時代等の過去エピソードのいくつかには人生との間に存在する「深い淵」が感じ取れる、という具合に。
というか、誰でも読めば感じ取れると思うので、感じていることを意識する、と言うべきでしょうか。

「深い淵」の存在を甘受する作者の姿勢に不満を感じる読者がいるかと思いますが、これまた第一章で作者が断っているように、この作品はごく個人的な文章であり、普遍的なテーマは追求されていないので、多くを望むなってことだと思います。
しかし、ラジオのパーソナリティに「僕は・君たちが・好きだ」と語らせているあたり、決して無気力なわけでは無さそうですけど。

以後の作品はもっと複雑な構造になっているのでこの読み方だけでは通用しなくなりますし、わざと曖昧に表現するというようなあざとさも出てきますが、根っこにある創作姿勢は共通していると思います。

補足のつもりが、本文より長くなってしまった・・・
kazenoutaxkike.jpg
  1. 2006-05-03 00:41:42
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スプートニクの恋人 (村上春樹)

村上氏の長編小説の中にあって『スプートニクの恋人』はやや異質な作品です。
ファンタジックな性格が控え目な恋愛物という意味では『ノルウェイの森』『国境の南、太陽の西』に近い持ち味です。
ただし、出来事の大半において「ぼく」が報告者というポジションにいるのは目新しいかも。出来事のほとんどはもっぱら二人の女性(「すみれ」と「ミュウ」)の間で起こり、「ぼく」は二人からの伝聞を元に語っています。
そして、「ぼく」のキャラはこれまでになく控え目で平凡。仕事だけ見てもお堅い教職員であり、ヒロインを追いかけてギリシャに飛ぶけれど、仕事優先で事件未解決のまま夏休み明けには帰国します。受け持つクラスの児童による万引きというハードボイルドではない事件に頭を抱えたりもします。村上氏の長編の語り手の中では飛び抜けて普通の人です。
つまり、従来の村上作品で大きな魅力になっていた、主人公兼語り手による個性的な実況中継的語りが、『スプートニクの恋人』では相当程度放棄されています。
それだけに、この作品では二人の女性の物語の面白さにウェイトがかかりそう。

あいにくと二人の女性に対して感情移入できませんでした。わたしが同性愛的な感覚にうまく同調できない、ということもありそうですが、演出面で不満が残りました。「すみれ」と「ミュウ」のエピソードが薄いし、「ミュウ」の内面が不透明に過ぎるような。語り手である「ぼく」の「すみれ」に対するの思いは確かに伝わってきたけれど・・・

でも、スタイルの面では、これまでの殻を破ろうとした意欲作なのでしょう。
suputoniquxkoibito.jpg
  1. 2006-05-03 00:41:17
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海辺のカフカ (村上春樹)

普遍的なテーマを採り上げ、メッセージ性を打ち出している点でこの作家としては思い切った新機軸と思います。
平たく言うと、従来作品は「僕のことを分かって欲しい~」的なノリでしたが、この作品は「僕、こう思うんだよね」っぽいです。

後述のようになかなか手ごわい作品ですが、生きていくために必要な強さとは人を信じて受け入れられることだし、そのための想像力を持っていることだから、自分の世界にこもったり、力でねじ伏せようとしても幸せにはなれないかもね、というメッセージさえ受け止めれば、後は読み手が好きに解釈すればいいんじゃないでしょうか。暴論かも、ですが・・・

《構成とか作法とか》
この作品では、15歳の田村カフカの凝縮された成長プロセスがつぶさに描かれています。そもそも心の成長などというものは本人が手応えとして感じるもので(「吹っ切れた」とか「気にならなくなった」とか)、自身でも分析的・段階的に説明できる代物ではありません。心理学の用語で説明することは可能でしょうが、それでは“感じ”を伝えることが出来ないし、共感を呼び込めません。それを村上氏がどう料理しているかがポイント。

村上氏はその“感じ”を表現するためにかつてなかったほどの激しさでメタファー(暗喩)と見立てと幻視っぽい描写を駆使しています。
たとえば、生きることに内在する苦しみ・痛みがギリシャ悲劇オイディプス王の物語に見立てられ、それが予言あるいは呪い(父を殺し、母・姉と交わる)として「僕」を縛る。「僕」は予言の成就を恐れて逃避するけれど、予言はメタファーという名の思い込みにおいて1つ1つ成就されていく(夢で父親を殺したと思い込み、ほぼ赤の他人を母親に見立てて性交する)。追い詰められた「僕」は、自己の内界のメタファーとしての森に入り込むが、そこで母親に見立てたほぼ赤の他人を許し受け入れることで生きる強さを身につける・・・と言う具合に(これは超ダイジェストで、実物はこの何倍も複雑怪奇)。登場人物やエピソードのすべてが象徴であり見立てでありメタファー(暗喩)です。そして、出来事には現実と想像の境界がありません。

凝りに凝っていますが、ちょっとやりすぎじゃないでしょうか。技巧的に過ぎるように感じられました。適度なメタファーは作品世界に奥行きもたらしますが、ここまで来ると読者を弄んでいるようにも感じられました。奥が深い、じゃなくて、こねくり回し過ぎ。
いずれにしても、この作品を現実的に読んでしまうとわけがわからなくなります。

迷宮化されて複雑怪奇になっているけど、作者が提示しているいくつかのルール(世の中メタファーだらけとか、想像するだけで責任が生ずるとか)に即して読む限りでは、超ダイジェストで前述した通りオチのある作品だと理解しています。

《語り口とか》
15歳の少年田村カフカによる一人称語りとナカタさんを描いた三人称語りが並行します。
語り手=主人公が15歳の少年という設定はこれまでの路線(二十代後半から三十代)から大きく外れていますが、従来作品の「僕」とのギャップはあまり感じませんでした。15歳というのは便宜上の設定なので、語り口に少年らしさを期待したら裏切られてしまいます。

三人称語りがこれに並行しています。この作家の三人称語りは珍しいのですが、このパートの主役(ナカタさん)のキャラを考えると納得の選択。『1973年のピンボール』での三人称語りの印象が芳しくなかったので懸念しましたが、この作品の三人称語りパートでは人間の内面奥深くを描く必要がないので(このパート全体がメタファーみたいなもんですから)、すんなりと読めました。

《人物の描き方》
この作品は寓話として作られているので、人物造形云々は言いっこ無しでしょう。この作品の登場人物たちは作者の分身としての観念的かつ機能としての存在。だから、現実的な人間として読んでしまうとわけがわからなくなります。

《雑感》
複数の登場人物の口を借りて作者が説教オヤジっぽく講釈を垂れることが気になりました。さしもの村上氏も、精神的な老化の兆しでしょうか・・・

それと、わたしがクラシックを聴く関係で気になったのがシューベルトのソナタやベートーヴェンの『大公』の扱い。曲名を引っ張り出すだけならともかく、作品の内容に絡ませて、「詳しくは楽曲をお聴きください」的に処理してしまうのはどんなもんでしょうか?作家も表現者なのだから、自分の言葉で同じ効果を実現して欲しかったです。

《結び》
新機軸ということもあって、諸々引っかかりつつも、全体としては興味深く読みました。成否は別として大変意欲的な作品で、旺盛な創作力に感じ入りました。
次作でどういう方向性が出てくるのか楽しみです。
umibexkafuka.jpg
  1. 2006-05-03 00:40:51
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国境の南、太陽の西 (村上春樹)

村上氏の長編というと隠喩的なエピソードとか現実とファンタジーの交錯を予感させられますが、この作品はひねり無しのストレートな恋愛小説でした。実も蓋も無く言ってしまったら「僕」の女性遍歴を描いた小説。
シンプルな作品だけに、これまで培ってきた手法をアレコレ駆使するのではなく、独特の雰囲気のある会話と、敢えて内面に立ち入らない距離感のある人物描写とで、もっぱら抒情的に描かれています。そうした気分を味わう作品だと思います。それに感応できる読者は触発されるかもしれません。

わたし自身は、島本さんと「僕」の妻の人物描写をもっと突っ込んで欲しかったと思います。特に妻。妻の人物像や「僕」との関係性が掘り下げられないので小説の世界が広がらず、「僕」のうじうじとした一人語りに終わっています。掘り下げることによって抒情性や透明感は弱まるかもしれないけど、その先にある村上氏の人間観とか恋愛観みたいなものを形にして欲しかったです。ほのめかしの美学にはちょっと飽きてきたし、物足りなくもあります。確かに、直接的に言葉に置き換えられないこと、あるいは置き換えた途端に陳腐化してしまうことがあるのは事実ですが、村上氏の場合そのはるか手前で足踏みしているようなもどかしさがあります。

一味違う雰囲気の作品ですが、因数分解していくと従来作品の焼直しという印象。ただし、焼直しが常に悪いとは思いませんし、それなりには楽しめました。
kokkyoxminamitaiyoxnisi.jpg
  1. 2006-05-03 00:40:25
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ねじまき鳥クロニクル (村上春樹)

3部全体を俯瞰すると完成度の低さは否めませんが、非凡で強烈な力作であり、ことに創意とチャレンジ精神に溢れた第3部には並々ならぬものを感じます。

《チグハグな部分》
完成度の低さを感じさせる最たるものは第1部+第2部と第3部のチグハグさ。内容的に齟齬があるし、スタイルの面でも大きな隔たりがあります。

たとえば第1部+第2部で活躍した加納姉妹は第3部では顔を出しませんが、加納姉妹を前提とした伏線も何気に葬り去られています。
あるいは、主人公の妻のキャラが双方では大きく異なります。第1部+第2部では生身の人間として描かれていましたが、第3部では主人公の戦いの中で象徴化されてしまっています。それによる不完全燃焼な後味は拭い切れません。

第3部から本格的に登場する赤坂親子や終盤の間宮中尉の手紙はいかにも唐突で、伏線なんかあったもんではありません。

《第1部+第2部はイマイチ?》
第1部+第2部のスタイルは基本的に過去の長編作品の延長線上にあります。ストーリーやキャラの整合性を保ちつつメタフォリックな手法を織り込むアプローチです。知性と感性がバランスしたアプローチで、読者はストーリーやキャラに感情移入しながら暗喩的な意味を自然に汲み取っていくことができます(あくまで原則・・・)。
個人的な好みを言わせていただくと、第1部+第2部は過去の作品に比べて精彩を欠くようです。自在で瞬発力に富んだ想像力は影を潜めて、かと言ってそれに替わる新手の魅力は見当たりません。ぶっちゃけ年齢による感性&想像力の衰えを疑ってしまいました。

《大きな一歩を踏み出した第3部》
第3部は、第1部+第2部の鈍さや淀みを完全に払拭しています。昔に戻ったのではなく、大きな一歩が踏み出すことで。現在の作風につながる巧緻な技巧性が花開いていますし、80年代の傑作群に匹敵するほどにパワフル。

ストーリーやキャラの整合性・一貫性は後退し、メタフォリックな手法が大胆に駆使されています。

第1部+第2部では、妻や宿敵(綿谷ノボル)はキャラクターとして完結性を保っていましたし、妻への愛と宿敵(綿谷ノボル)との対決は不離なものとして描かれていました。流れとしては、主人公が自分の大切なモノを守るために立ち上がる、的な方向に向かっていました。

第3部はもちろんその流れに乗っていますが、妻も宿敵(綿谷ノボル)もそれ以外の登場人物たちも対決の構図を形作るパーツに昇華されて、一種の観念劇と化しています。
戦いや救出の現実的な描写は後方に退き、妻、綿谷ノボル、笠原メイ、間宮中尉、赤坂親子らが作者の依り代となって、合唱曲の声楽パートさながらに、人間を侵食する社会的な悪(?)の成り立ちについて、運命の支配力と人間の弱さについて、戦うことの必要性と危険性についてなどなどをかわるがわるになって謳い上げていきます。
構成は無秩序風ですが、大切なことは隣接した複数の章で重複して語られており、分かりやすくするための工夫はあります。

ただし、しつこい部分(特に戦争の描写)があると思えば手薄に感じられる部分(たとえば主人公の中の変化とか)があったりと、洗練度はイマイチ、というかかなり力ずくかも。読み進むうちに作者の狙いとするところが自ずと像を結んでくる、みたいなかっこよさには到達できていないと感じました。

《蛇足的むすび》
『ねじまき鳥クロニクル』は当初第1部+第2部のみで構想され、その後になって第3部が追加されたそうですが、個人的には第1部+第2部で完結させなかったことは納得できるし、それを契機に新たな地平に踏み出した旺盛な創作力には敬意を覚えます。
nejimakidori-chronicle.jpg
  1. 2006-05-03 00:39:53
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ノルウェイの森 (村上春樹)

恋愛&セックスを抒情美たっぷりに描ける、というのはこの作家のセールスポイントの1つですが、『ノルウェイの森』ではこの能力が前面に出ています。そのぶんファンタジー性とか技巧性は控え目。シンプルというかベタな作品ではありますが、作者の表現意欲は強烈で、そのパワーは、読む者を圧倒するよりも、深く強く浸透し感染して来ます。
このベタで濃厚な味わいをどう受け止めるかで好き嫌いが決まりそう。

俗っぽいテイストにもかかわらず安っぽくならないのは流石。

まず文章の素晴らしさ。抒情美たっぷりな文体ですが、雰囲気に流れていなくて、言葉の選択は意味的にも語感としても吟味されているし、想像力が力強く息づいています。

恋愛に死とか孤独が絡められるのはありがちで、『ノルウェイの森』も例外ではありませんが、単なる味付けにとどまっていなくて、ときには死が、ときには孤独が作品のテーマかと感じられるほどに濃やかに描かれていて、恋愛小説の枠にとどまらない奥行きを生み出している、と思います。

いくつかある印象的な場面の中でも、あまりにも効果的なラストシーンを忘れることが出来ません。「僕」のドンヨリとした情緒に思いっきり読者を引き付けた上で、そのまま終わると見せかけてスコーンと突き放してしまう荒業。しばし呆然としてしまいました。

個人的には、「僕」が初めて「緑」の家を訪れるシーンも印象的。このシーンに限らず、「緑」はこの作家が創造した人物の中でも、もっとも活き活きとして魅力的な一人。『ノルウェイの森』のリアリズム小説としての成功は、彼女に拠るところ大。

自己愛が強い「僕」に感情移入しにくかったり、「直子」の人物造形が中途半端に感じられたりと、作品トータルでは抵抗感が無きにしも非ずですが、村上作品中でも際立って濃厚なテイストと見事なラストシーンのゆえに、『ノルウェイの森』侮り難し、なわたしです。


《セックス観について》

村上作品においてセックスはどう位置づけられているのか?ということですが、はっきりとは分かりませんが、複数の作品を読んだ結果、おおよそ次のようなイメージを持っています。

村上作品(主に長編)の主人公には、友達といえる存在は無いに等しいし、男女の関係においても、お互いの思いが生々しくにぶつかることはほとんどありません。そんな中で、セックスが唯一リアルに他人と関わる行為。場面ごとにニュアンスは異なりますが、男女の関係を超えて、外の世界とのつながりの象徴とセックスが位置づけられているように感じられます。
『ダンス・ダンス・ダンス』のラストシーンなんか典型的かも・・・

この作家が大の女好きで、セックス大好き人間だとしても、村上作品での女性やセックスは、単なる刹那的な快楽ではなくて、主人公と世界とつなげる重要かつ決定的なものとして扱われている、と思います。
norwayxmori.jpg
  1. 2006-05-03 00:38:56
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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド (村上春樹)

ファンタジックな物語性はすでに前作『羊をめぐる冒険』で相当程度発現していますが、一気に行くところまで行ってしまったのがこの作品です。この路線はその後も複数の作品で踏襲されますが、イマジネーションの豊かさ・強靭さの点でこの作品は依然として抜きん出ているように感じます。
たとえば、エレベーターの中に突っ立っているだけとか延々と廊下や洞窟の中を歩き続けるだけというような単調な場面であっても、村上氏は間断なくそして変幻自在に読み手の想像力を刺激してきます。この旺盛で自在なイマジネーションには眼を見張ります。

現実感とファンタジックな味わいが渾然とした作風が多い村上作品の中で、この作品は基本的に空想世界の物語として構築されています(『ハードボイルド・ワンダーランド』の方には多少現実感がありますが)。それだけ写実的ないしは叙事的な描写の割合が増えるので、村上作品としてはかなり文章が引き締まっています。個性的な文体の魅力を武器とする作家だけに、他の作品とは異質の味わいがあります。
そして『世界の終り』と『ハードボイルド・ワンダーランド』とで、それぞれの舞台やストーリーに合わせて文体が鮮やかに使い分けられています。『ハードボイルド・ワンダーランド』の文体が三部作(『風の歌を聴け』~『羊をめぐる冒険』)などの従来作品に相対的に近い調子であるのに対し、『世界の終り』の文体は写実性・叙事性が高いうえにどこか静けさが漂っています。

この作品は、村上氏が気分とか雰囲気だけの作家ではなく、物語を構築する並外れた力量の持ち主であることを証明しています。その後の20年でいくつもの大作が発表されましたが、この点では未だに『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が最右翼に位置していると確信します。
個人的にはこの作品と『ダンス・ダンス・ダンス』が村上氏の創作力の頂点と考えます。

暗喩的な設定が散りばめられており、解読的な読み方をされることが多いようです。作者本人が自伝的作品と言っていますから、村上氏の作家としてのあり方(作家として想像力の世界に生きるということ)が示されているものと考えます。しかし、そのような“解釈”よりも、表現者としての圧倒的なまでのイマジネーションを堪能したいと思います。
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  1. 2006-05-03 00:38:28
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