ぶっき Library... 村上春樹

ぶっき Library...
読んだものの感想を自由に。



スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. -------- --:--:--
  2.  スポンサー広告
  3.  |
  4.   Top ▲ Home

1Q84 (村上春樹)

今更ながら、『1Q84』を読了。



以前に村上作品を読んでからずいぶん時間が流れたので、あいまいな記憶にすぎないけれど、村上春樹の三人称視点による語りとしては、これまでになくすんなりと読めた気がする。

過去の村上作品を知る者にとっては馴染みのあるキャラが揃っていて、そのぶん作者も気持ちを入れやすかったのではないだろうか。三人称視点になっても、よそよそしさは感じられなかった。これだけの大長編にして。

このことが、最大の収穫ではないだろうか。大したことないように聞こえるかもしれないが、もともと一人称語りの名手なので、読者の期待値は自然と高くなる。その上でのこの収穫だから、意義はそれなりに大きいと思う。



ただ、主要人物の三人が、それぞれに独立した人格として存在感を発揮している、ということではないのかも。成り立ちが暗示的な物語であって、その中で、登場人物たちは各自の役割を果たしている感じ。活き活きとした人間模様が浮かび上がってくる、なんてことはない。

また、登場人物のキャラ設定を見ると、それぞれに傷を抱えているけれど、ポテンシャルの高い人物ばかり。そういう設定にしたほうが物語を回しやすいということはあるのかもしれないけれど、作者の好みなのだろう。

いずれにしても、三人称視点による語りが磨き上げられたことで、村上ワールドが大きな変革を迎えた、という感覚はしない。一人称語りのときと同じ閉じた世界を、異なる切り口から眺めるような感じ。

これは良い悪いとは別のこと。



リトル・ピープル、ドウタ、マザ、パシヴァ、レシヴァ、2つの月といったような、暗示的な設定があちこちに配されている。しかし、それらに託された意味みたいなものを考察しなかった。

たとえば『ねじまき鳥クロニクル』では、含意を読み取らないことには読んだことにならないと思わされて、あれこれ頭をひねった。
『1Q84』にそういうところはない。なにしろ、主要人物の3人とも、最終的には舞台からいなくなってしまうわけで、架空の物語世界と片付けてしまったって何ら支障のない作りになっている。
わたしとしては、お言葉に甘えて、考えることをしなかった。



そういう読み方をすると、ちょっと影のある、ボーイ・ミーツ・ガールの後日談、という感触の小説になるのだろうか。

カップルの女性の方がたくましくて、男性は受身でヘタレ気味という設定は、ライトノベルにありがち。『1Q84』はライトな小説ではないけれど、軟派な娯楽小説ではあるかもしれない。

いずれにしても、これだけの長編を一気に読まされたから、おもしろいことは間違いない。
スポンサーサイト
  1. 2013-06-22 14:07:37
  2.  村上春樹
  3.  |
  4.  Trackback(0)
  5.  Comment(0)
  6.   Top ▲ Home

東京奇譚集 (村上春樹)

村上春樹の新しい本は久しぶり。新しいと言っても、発刊から既に2年以上経過しているわけだが…

自らの芸風を確立し、世界規模で支持されるようになった作家が、余裕を持って書いている。芸の力は揺るぎない。
しかし、かつてその芸に輝きを与えていた何かが…相当程度失われてしまった。積み上げられてきたスタイルは形骸化し、新しい村上春樹らしさと見受けられる三人称語りまたは濃度の薄い一人称語りは練度が低く響いてこない。

詳しいことは分からないし、おそらく小説の中で率直に語られたことはないと思うけれど、いずれにしてもかつての村上春樹は「他者や取り巻く世界をうまく理解できない、ないしはそれらとうまくかかわれない」という状況にあって、そんな状態を分析・評価・批評を交えず、というか入念にそれらを排除し、実感とか感覚を言葉として積み重ねることで自己表現を試みていた。見方を変えれば、うまく理解できないもの(=他者や取り巻く世界)をもっともらしく理屈で処理することを由とせず、実感を込められる言葉やイメージのみで語ろうとした(そのぶん自閉的になったけれど)。その試みは真摯かつ徹底的なものであり、アーティスト名やブランド名の羅列、リズミカルで心地よいけれど空疎な会話等々の軽薄な(?)外面的特徴にもかかわらず、村上作品に独特の芸術的リアリティ(?)をもたらしていた、と思う。
このアプローチは80年代に頂点を迎えるが、作家の表現者としてのプライドと意欲がそれに長く安住することを許さず(推測)、90年代前半の労作『ねじまき鳥クロニクル』三部作の中で劇的な変容を遂げた。それまで裏方であった(感覚、感情、華麗な表現などなどを下支えしていた)観念が前面に張り出して来た。
新たに打ち出された方向性は急速に強まり、過去の文体や修辞法を保持しつつ、技巧的な観念小説として花開いた。観念的ではあっても、理屈をむき出しにせず比喩や連想や幻想を駆使した行き方には、依然としてこの作家のこだわりやセンスが感じられた。
が…『ねじまき鳥クロニクル』第三部には産みの苦しみと呼びたくなるような息苦しさとそれを乗り越えた力強さがあったけれど、次第に村上春樹の紡ぐ言葉は軽くなってきた。かつて「僕」や「ぼく」に思いを託して言葉を紡いでいたときのような力強さも、華やかさも、浸透力も後退していった。
理屈の上での進化は、必ずしも作家としての進化につながらない、と思う。たぶん、一所懸命に自分を語ったり表現しようとしていた頃の彼ほどには、演出者として一歩ひいて振舞う彼は興味深くはないのだ、わたしにとって。
“語り”という切り口から言うと、かつての村上春樹は一人称語りにこだわり、その道では超一級の語り手だった。しかし、三人称語りの語り手としては、まあ「なかなかいいね」止まりだと思う。そして一人称語りにかつての精彩はなくなっている。

『偶然の旅人』『ハナレイ・ベイ』『どこであれそれが見つかりそうな場所で』『日々移動する腎臓の形をした石』『品川猿』の五篇が収録されている。世の中に出回ってる短編集たちを交えてランキングするなら、中の上あたりにはなるのかもしれない。あるいは、村上春樹を知らない人が手に取れば、「風変わりで面白い作家がいるな」くらいは思うだろう。
ただ、だらだらと上述したとおり、わたしはいずれの作品にも感銘も感心もしなかった。よく言えば“肩の力を抜いた”だが、村上春樹だったらこのくらい書けて当然だろうし、どちらかというと手を抜いているように読める。
たとえば、『偶然の旅人』では、前置きの語り手自身の体験と、その後のメインの物語にズレがあって(「人生に影響のない不思議な出来事」と前振りしながら、実際のエピソードは人生に影響を与える出来事)、そのことがインパクトを緩慢にしている。プロットが煮詰められていない。
『ハナレイ・ベイ』では、多用される会話の嘘っぽさが鼻につく。また、この種の三人称語り小説で重要な、各キャラが作り物っぽい。この作家はもともとキャラ作りのキャパが乏しいのだ。過去の名作を振り返っても、「僕」とそれにかかわる女性たちには存在感があるけど、それ以外のキャラは人工的。三人称語りによってもともとあった弱点が露呈している。
『どこであれそれが見つかりそうな場所で』は、最初こそ状況設定に期待しかけたが、「私」を謎めいて描くことの効果が疑問。軸足の置き所があいまいなので感銘も半端。
『日々移動する腎臓の形をした石』は、この人の小説としては保守的な傾向で、“らしい”けれどそのぶん新鮮味はない。
『品川猿』は、他愛のないファンタジーの短編として読むぶんにはいいけれど、短編集の掉尾を飾るには物足りない。これだけが書き下ろしで、この短編集の“肩の力を抜いた”持ち味が色濃く出ているのかもしれない。

上にも書いたけど、村上春樹は、創作者としての進化を試みて、現在のスタイルに至った。何にしてもその姿勢には感服する。しかし、理屈の上での進化が作品の魅力アップに必ず結びつくわけではない。
さらに、世界的規模で支持を得つつあることが、創作上ポジティブに作用していた彼の意固地さ(あるいはハングリーさ)を減退させているのかもしれない。あるいは加齢による後退か?あるいは、魔がさしただけか?いずれにしても、かつての作品群からすると、『東京奇譚集』は脇が甘くて、馴れ合い的に緩い作品集と感じた。村上ファンの方、失敬。
tokyokitansyu.jpeg
  1. 2007-10-08 14:04:28
  2.  村上春樹
  3.  |
  4.  Trackback(0)
  5.  Comment(3)
  6.   Top ▲ Home

『ある編集者の生と死-安原顯氏のこと』(後編)

前編はこちら

(村上春樹本人を美化しているファンはこの記事を読まない方がいいかも・・・)

というわけで件の寄稿の中味だけど、たかだか二段組16ページの短い文章なので、何かを断定するには心もとない情報量ながら、感情的にドロドロしたものが伝わってくる。

はっきり言ってこの文章は曲者。
二人の関わりや安原顯の人となりが、小説の匠の熟練した手さばきで、才能溢れる作家と型破りな編集者の愛憎のドラマ、として描き上げられている。
一読くらいだと、巧みな語り口に乗せられてすんなりと受け容れてしまいそう。でも、何だかもやもやした感触が残る。

文章から書き手の本音を探るなら、表現(言い回し)より論理に注目すべき。特にこの書き手は日本を代表する小説家。言葉巧みなことは、芸達者な美人女優の如し。言葉のニュアンスを変幻自在に操れるはず。でも、論理は論理として提示するしかない。

この寄稿は、故人(安原顯)を悼みながら、遺憾の念を静かに噛みしめるがごとき佇まいだけど、そういう装いを振り払って論理を追いかけると、なんだか不穏。


《不穏 その1》
この寄稿は、安原顯が悪意を持って原稿を流出させたと強く推断している。漫然と読んでしまうとそんな気にさせられるけど、悪意については根拠が薄弱。
確認できている事実は、本来中央公論社が保管しているはずの原稿が高値で取引されていて、それがかつて村上春樹が安原顯に託した原稿である、ということくらい。だから、安原顯が流出させたことは間違い無いとして、悪意を裏付ける事実は無いし、この寄稿から異なる仮説を導き出すことが出来るはずだけど(過失ないしは未必の故意の線で)、一顧だにされていない。
まことしやかに故人の悪意を語り、それを嘆いてみせるのは、フェアではないと思うのだけれど・・・


《不穏 その2》
文章のあちこちに安原顯をフォローする言葉が入っていて、パッと見一方的な糾弾には見えないのだけれど、実質的には人格も仕事もほとんど否定している(誉めているのは、陰口を叩かない、ということくらいかな)。しかも、仕事に関しては、日本の編集者すべてをこき下ろすオマケつき。
被害者として感情的になるのは仕方がないとしても、何ゆえこれほどまでに攻撃的なのか?


《不穏 その3》
その2と一部重複するけれど、安原顯との交流を振り返る過程で、執拗に文壇や業界関係者を否定・攻撃している。嫌いなものは嫌いで仕方が無い。でも、日本で本を出版しているからには、意識しようとしまいとそれらから何らかの恩恵を被っているはずで、なぜこんな風ににべ無く踏みにじる必要があるのだろう?
しかも、わたしは文壇が村上春樹を冷遇しているものと考えていたけれど、この寄稿から察するに、デビュー前から彼は文壇や業界関係者を嫌っていたようで、つまり喧嘩を仕掛けたのは村上春樹の側なのかも(無意識としても)。
確かに、谷崎賞や読売文学賞の受賞作家が業界から冷遇されているとは考えにくいし、授賞されていない芥川賞にしても、デビュー1,2作が続けさまにノミネートされ、3作目以降は芥川賞の選考基準に適合しないから、村上春樹の方が芥川賞を見限ったと言えなくもない。


というわけで、論理の流れを追っていくと、この文章はドロドロとした敵意の塊で、おそらく、あちこちに挿まれている安原顯へのフォローはポーズでしかなくて、完膚なきまでに打ちのめしている。巧みに思慮深さを装っているから、第三者(わたしもそうだけど)はすんなりと流してしまうだろうけど、故人にゆかりのある人たちや業界に携わる人々の胸には刃がぐっさり、という文章だと思う。
そういう意味で巧み。屈折した巧みさだけど。
象徴的なのが「結果的に励ましてくれた」の章で、建前として感謝しながら実質あれやこれやをこき下ろしていて、読んでて気分が悪くなる。


このブログをみていただければ分かるように、わたしは村上春樹のファンで、それはこの寄稿読了後も変わらない。むしろ実像に一歩近づけたようで満足。小説とは一味違う人間臭さを垣間見たような気がする。この人が公正さとか潔さにこだわるのは、内に荒々しい妄執や瞋恚を抱えている反動かなぁ?なんて妄想を膨らませてしまう。
ちなみに、優れた芸術家が高潔だとか人格者だなんてこれっぽっちも思ってない。むしろ、旺盛な創作力のエネルギー源として、渦巻く感情の動力炉があるのは自然なこと。 上で否定的な言い回しを使ったけれど、それは本心からだけど、いただけない部分もひっくるめて楽しめればOK。
bungeishunju2.jpg
  1. 2006-07-04 08:09:51
  2.  村上春樹
  3.  |
  4.  Trackback(0)
  5.  Comment(0)
  6.   Top ▲ Home

今さら自筆原稿流出事件(前編)

図書館で『文藝春秋』4月号を目にしたので、一頃話題になった自筆原稿流出事件に関する村上春樹の寄稿「ある編集者の生と死-安原顯氏のこと」を読んだ。

ご存じ無い方のために簡単に説明すると、故安原氏が(その筋では有名な編集者、批評家だったらしい)、編集者として手に入れた村上春樹の自筆原稿を無断で売却していたらしい、という事件。

『文藝春秋』4月号が出回ったのは今年の3月。3ヶ月遅れの話題。まあ、新刊本を採り上げることが稀な当ブログとしては、3ヶ月程度のタイムラグはどうということは無い(笑)。

この事件やこの記事のことは3月の時点で聞き知っていた。記事は読まなかったが、ネットで盛んに言及されていたので、あらましは知ることが出来た。その頃に記事を読まなかったのは、ゴシップには興味が無かったから(関係者にとってはゴシップで片付けられないことかもしれないけど)。
で、このたび目を通したのは、事件とは別の興味から。



ここで話はガラリと変わるけれど・・・

三人称語りでは、作家は自ずと超越者=神の視点から物語世界と関わることになる。一方、一人称語りでは、作家の視点は特定の登場人物にチューニングされる。特に、村上春樹の語り手は、報告者・観察者ではなく物語の中心人物なので、語り手の自意識が物語世界の根幹をなすことになる。
このやり方は、読者を語り手の内面世界に誘い込みやすい反面、ある意味無防備で、作家自身の甘えとか弱さを曝け出して興を殺いでしまうリスクがある。そういう例は、彼の模倣者たちの作品に少なからず見受けられる、と思う(もっとも、それを魅力と感じる人もいる)。しかし、村上御大の作品ではそれを感じない。

甘えとか弱さを垂れ流さないためには、人格を鍛え上げるか、一人称語りを用いながら、複眼的に超越者=神の視点と語り手の視点を使い分けられる知的・精神的強靭さが必要なのではないか。

初期~中期の村上作品の「僕」ないしは「ぼく」は、自分の価値観や美意識に固執する意固地な人間。当然周囲とのズレやすれ違いが生ずる。ここからがこの作家らしいのだけど、「僕」ないしは「ぼく」は、そのズレやすれ違いをまっすぐに受け止め、傷ついたり悲しんだり落ち込むけれど、それによって自己批判も他者攻撃もしない。ただ受け容れて消化する姿勢には、人とか社会に対する諦念みたいなものが漂っていて、そのことに不快を覚える読者はいるかもしれないけれど、少なくとも作品として独善や自家撞着には陥っていない。ゆがんでるけど(私見)、姿勢として筋は通されている。
一方『ねじまき鳥~』以降の登場人物たちは、成し遂げるためと言うよりも、守るため、自由のために戦う。この戦いの構図で特徴的なのは、敵や戦いそのものが観念的・抽象的に描かれていること。勧善懲悪劇ではなくても、観念化・抽象化された敵は自然と読者の目に「悪」と映るので、主人公の側の正義をすんなりと受け容れることになる。

というように、主人公たちのキャラや作品の価値観は生臭そうに見えるけれど、それが臭わないように周到に防御壁が設けられている。もう少し噛み砕くと、「僕」ないしは「ぼく」みたいな人物と現実に接したら、不愉快な思いをするか、それ以前にコミュニケーションが成立し無さそうだけど(あくまで私見)、小説の登場人物として接している限りにおいては、さして不快ではないし(違和感くらいはあるけれど)、ときには感情移入してしまう。
やり方に対する好き嫌いは別にして、作家としての頭の良さなのだろうと思う。


さて、このことが冒頭の寄稿とどうつながるのか、だけど・・・

自筆原稿流出事件は現実の出来事だから、ただ受け容れて消化するだけでは済まないかもしれないし、敵(?)は実在した人物で、観念的な存在でも抽象的な存在でもない。
フィクションを通してしか村上春樹を知らないわたしは、彼の知らない一面がこの寄稿の中に見つかるかも、という興味を抱いた。


後編はこちら
bungeishunju.jpg

  1. 2006-06-29 02:13:22
  2.  村上春樹
  3.  |
  4.  Trackback(0)
  5.  Comment(0)
  6.   Top ▲ Home

アフターダーク (村上春樹)

既に『東京奇譚集』が刊行されましたが、今さらながら『アフターダーク』を読みました。

《作品について》
二十歳前後の一組の姉妹エリとマリが主役で、とある一夜(夜更け~明け方までの7時間)の出来事が描かれています。と言っても、姉の方は眠っているだけなんですけど・・・

小説をどう味わうかは読者の自由ですけど、この作品で作者の文学的創意を堪能するならば、姉エリの描き方というか、正確に言うならば彼女が抱える心の闇(=閉塞感)の描き方に尽きると思います。

村上氏は、姉エリ本人を終始眠らせておきながら、お得意の悪夢を思わせる幻想的な一幕 (テレビに取り込まれる場面)、中国人娼婦暴行事件(テレビに取り込まれる場面を通じてこの事件はエリに関連付けられており、中国人娼婦は追い詰められたエリの、暴行犯人はエリを追い詰めたもののありようを比喩的に示している)、妹マリが他の登場人物たちと交わすもろもろの会話(特に姉の友人高橋によるエリについての考察とラブホ職員コオロギの身の上話)を通して、姉エリが内に抱える闇を描出するというアクロバットに挑戦しています。
技術的にチャレンジングな作品ですが、とんがった印象は一切ありません。

村上春樹と言えば一人称自分語りのイメージが強烈ですが、この作品では珍しく三人称語りで一貫しています。一言で三人称語りといっても登場人物との距離感はさまざまですが、ここでは観察者という位置取りが選択されています。一人称自分語りに未練を感じないわけではありませんが、姉エリの内面描写の鮮度を高めるためには語り手の存在感を限りなく薄めることが得策なわけで(エリ自身を語り手にするのがベストだけど、ずーっと寝ているわけで・・・)、作品コンセプトに鑑みれば納得の選択。

《感想》
個人的にはこの作家の衰えない創意に感心し技術的なチャレンジを楽しみましたが、作品単体としての出来栄えとなると、挑戦することに意義があるというわけにはいかなくて、駆使されている技巧の効果が問われることになります。
これがいささか心もとなくて、さりげなく技巧が駆使された姉エリの内面描写は、これは十分に予想されたことですが(本人は眠っていますし・・・)、描かれ方が観念的・抽象的に過ぎて、感性に訴えてくる力が微弱。ここが肝なわけで、作品全体が散漫になっています。

三人称語りとしてのレベルは十分に高いと思いますが、では一人称自分語りに比肩できるほどに魅力的かというと、これまた十分に予想されたことながら、一歩も二歩も及びません。ことに二巡目でそれを痛感しました(ちなみに精読1回と確認がてらの流し読みを1回しました)。

この作家はデビュー作以来一貫して表現方法に意識的に取り組んでおり、技巧派作家としての横顔を持っています。近年技巧性への傾斜は強まる傾向にあり、個人的には過剰という印象を抱いていますが、いずれにしても読者に考えて読み解くことを要求してきます。それをどう受けとめるかが評価の分かれ道だと思われます。
afterdark.jpg
  1. 2006-05-03 00:43:35
  2.  村上春樹
  3.  |
  4.  Trackback(5)
  5.  Comment(2)
  6.   Top ▲ Home

神の子どもたちはみな踊る (村上春樹)

《作品のプロフィール》
連作短編集。6編が収録されています。この作家としては珍しく三人称の語りになっています。

1995年の阪神・淡路大震災(ちなみに村上氏は兵庫県育ち)に強い影響を受けた作品群だそうで、全作品にこの震災が登場します。しかし震災が直接的に描かれているわけではないし、この出来事を知らなくとも鑑賞には差し支えないと思います。当時の惨状の映像が脳裏にある方が多少は同調しやすいかもしれません。その程度です。

各話は内容的に独立していますが、震災以外にもいくつかのキーワードやキーとなるイメージ(かえるくん、箱、くま、石・・・)で関連付けられています。そのすべてが意味的に関連しているわけでは無さそうですが・・・

《暗喩が重用された観念的な作品群》
暗喩が重用された極めて観念的な作品集です。『蜂蜜パイ』を除く5編は、観念のパズルを意識的に読み解かなければ作品の趣旨に辿り着くのは難しいと思います。技巧的かつ難解、と言っても差し支えないでしょう。
感覚本位の読み方では太刀打ちできそうもありません。テーマに到達できなくてもそれなりに楽しんだ気持ちにはさせてくれますが・・・

初期の頃から繰り返し採り上げられてきたお馴染みのテーマが扱われていますが、この作品集では村上氏の思索は一層掘り下げられ、かつ読者へのメッセージとして凝縮されています。つまりテーマ自体が著しく観念的になっています。
にもかかわらず村上氏は観念的な言葉で観念を語ろうとはしません。観念を具象的な存在に見立てること、すなわち暗喩を用いることで観念的な言葉を徹底して排除しています。村上氏のこだわりないしは美学が感じられます。

村上氏は大変巧妙にこれらのことを成し遂げていますが、手放しで賞賛する気持ちにはなれません。
たとえば表題作『神の子どもたちはみな踊る』は、30ページほどのボリュームの中に『海辺のカフカ』上下巻に匹敵する内容が凝縮されていますが(と思いますが)、読み解くための献身的な努力を読者に要求します。テーマに行き着くことは、標準的な難易度の大学受験の現代文問題を解くことより厄介と思われます。と言っても、〇十年前の入試レベルとの比較ですけど・・・
スタイルの洗練が臨界点を超えてマニアックな偏狭さに向かっているように思えてなりません。これも一つの行き方ではあるのでしょうが。

こんな言い方をするとわたしがすべてを看破しているかのようですが、そんなつもりはありません。正解できなくても問題の難しさは見当つきますよね?

《簡単な個別的印象》
村上氏は作品に年齢をにじませることの少ない作家だと思いますし(ちなみに1949年生まれ)、この作品集も基本的には然りですが、『アイロンのある風景』『神の子どもたちはみな踊る』『タイランド』あたりには人生経験を積んだ人間にしかできないような洞察(=考えただけではなく、実感に支えられた洞察)を感じました。内容的に深いものがある、と思います。だから文学的価値が高いとは限りませんけど・・・

また、『蜂蜜パイ』は自伝的な香りが興味深いし、希望と決意が込められたエンディングで、この作家には珍しく爽やかな感動が残りました。
kamixkodomotatixminaodoru.jpg
  1. 2006-05-03 00:43:05
  2.  村上春樹
  3.  |
  4.  Trackback(2)
  5.  Comment(0)
  6.   Top ▲ Home

1973年のピンボール (村上春樹)

長編としては2作目。

デビュー作の『風の歌を聴け』は大変魅力的な作品でした。2作目も似たタイプにする余地はあったと思いますが、この作品では新たな一歩を踏み出しています。つまり、ありのままを語っただけの『風の歌を聴け』に対し、『1973年のピンボール』ではストーリーテリングが試みられています(小説だから当たり前ですが)。
ただし、全体にチグハグな印象。仕掛けが上手く噛み合っていないと感じました。

「僕」による一人称語りと鼠を描いた三人称語りの二本立てになっています。一人称語りが『風の歌を聴け』に通じる魅力を放っているのに対し、三人称語りの方はそれと対比させるように突き放したようなクールで簡潔な文体が選ばれていますが、この三人称語りはぶっちゃけつまらないです。三人称語りが下手ということではないと思いますが、あまりにも普通と言うか、村上氏の文章を読む楽しみは味わえませんでした。

「僕」による一人称語りの方は、らしさは感じられるけれど、物語や人物を作り過ぎていてスベリ気味と感じました。
肝心のピンボールマシンを巡る物語は喪失感を象徴的に描いているようですが、ピンボールマシンにしゃべらせたりとかの仕掛けはあるものの、「僕」の思い入れに同調するまでには至りませんでした。というか、ピンボールマシンを用いたことでかえって迂遠になっているように感じました。身近な物事を説明するのに、身近でない喩えが用いられているようなもどかしさがあります。作者にとってピンボールは身近な存在なのでしょうけど、身近に感じられない読者はいっぱいいるわけで、そういう読者を巻き込む仕掛けが欲しかったです(もっともそういうサービスをしないから村上春樹なのかも・・・)。
双子の女の子たちは完全にお飾りで、「僕」と彼女たちとの会話は雰囲気だけ。また、事務所の女の子はそれなりに存在感はあったけれど、とりあえず出してみました的に中途半端。まあ、本筋に関わりの薄い登場人物たちなので、作者は彩りと割り切って扱っているのかもしれません。でも、他の作品の彩り的登場人物たちと比べてもずいぶん薄っぺらく感じられます。

決して凡庸な作品ではないし、この作家の魅力は味わえますが、いろいろな仕掛けが狙い通りの効果を発揮していないと感じました。
1973nenxpinball.jpg
  1. 2006-05-03 00:42:41
  2.  村上春樹
  3.  |
  4.  Trackback(1)
  5.  Comment(1)
  6.   Top ▲ Home

最新の記事

カテゴリー NAVI

全体(HOME)

読書系
あ行
浅倉卓弥 (3)
浅田次郎 (5)
我孫子武丸 (2)
阿部和重 (7)
綾辻行人 (4)
有栖川有栖 (5)
伊坂幸太郎 (9)
いしいしんじ (3)
石田衣良 (2)
市川拓司 (4)
伊藤たかみ (2)
絲山秋子 (5)
歌野晶午 (7)
冲方丁 (2)
浦賀和宏 (3)
大江健三郎 (2)
大崎善生 (2)
小川洋子 (2)
荻原浩 (7)
奧泉光 (3)
奥田英朗 (3)
恩田陸 (2)

か行
垣根涼介 (4)
角田光代 (2)
金原ひとみ (3)
川上弘美 (2)
貴志祐介 (5)
京極夏彦 (2)
桐野夏生 (2)
栗田有起 (4)

さ行
重松清 (2)
島本理生 (3)
殊能将之 (4)
白石一文 (4)
瀬尾まいこ (3)

た行
多島斗志之 (3)
戸梶圭太 (2)

な行
中村航 (2)
二階堂黎人 (2)
西尾維新 (3)

は行
東野圭吾 (5)
樋口有介 (3)
古川日出男 (5)
保坂和志 (2)
堀江敏幸 (2)
本多孝好 (2)

ま行
舞城王太郎 (8)
松尾スズキ (2)
町田康 (3)
松岡圭祐 (3)
麻耶雄嵩 (5)
三浦しをん (2)
三崎亜記 (2)
水野良 (5)
宮部みゆき (5)
村上春樹 (15)
村上龍 (3)
森絵都 (3)
森博嗣 (7)

や行
横山秀夫 (2)
吉田修一 (3)
吉村萬壱 (3)
米澤穂信 (3)

わ行
綿矢りさ (2)


その他の作家 (44)


海外の作品 (9)



雑談系

このブログについて

最近のコメント

※ ポインターをあわせるとタイトル表示

最近のトラックバック

※ ポインターをあわせるとタイトル表示

リンク



にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

ブログ検索

運営者

ひねもじら 乃太朗

40代の中年男子です。コメント、トラックバック大歓迎です。でも、変なのは消しちゃいます!

メールを送る
管理者ページ





Powered By FC2ブログ



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。