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久しぶりの白石一文作品。
部下の自殺をきっかけにうつ病に罹り、何もかも失って故郷に戻った主人公と、ガン再発の恐怖と背中合わせに生きる友人(どちらも50歳目前)を軸に物語りは展開する。
渋い風合いと主要人物たちの高齢さに違和感を覚えなければ、なかなかいい小説だと思う。自分自身、最後まで読みきる自信のないままに読み進めていたけれど、意外とすんなり読了。ページをめくる手が止まらない、というような強い吸引力は感じないけれど、すんなりと読めた。
この作家の一番のうまさはストーリーテリングにあると思う。いったん読み始めると、ひっかかりはあっても最後まで読ませてくれる。つまり、力のある作家だとわたしは思っている。
上で“ひっかかり”という表現を使ったけれど、過去に読んだ作品ではこれが看過できないくらいに強かった。しかし、この作品ではほとんど気にならなかったし、過去のひっかかりの要因が見えたような気がする。
この人は生きる意味みたいなものを好んでテーマに据える。『永遠のとなり』もそんなひとつで、「人間って一体なんやろね」という発問がなされ、主人公は人とか人生について考察する。
こういうネタフリをされると、わたしなんかは形而上学っぽい世界を期待してしまうのだけど、この作家の“哲学”はあくまでも生臭い俗な世界で展開される。わたしにとしては、“哲学”というより“気の持ちよう”とか“方便”といったほうが近い。あるいは酒席での哲学?
そう感じる最大の理由は、主人公たち、そしておそらく作者も、性的な欲望とか名誉欲(学歴とかエリート意識とか)にまみれながら、そういう欲望とか執着に翻弄される自分を客体化できないままに“哲学”を語ろうとするから。
でも、わたしは“哲学”の素人であるから“哲学”の何たるかを定義する資格はないし、この作家の真摯な取り組みにそんなレベルでケチをつけるのは本意ではないし、『永遠のとなり』は過去に読んだ作品に比べてずんぶん率直だから、こちらも虚心坦懐にメッセージを受け取りたい。あいかわらず執着する自分を客体化しきれない不器用さを含めて。
もう少し突き抜けられたら、ある種の清清しさに到達できるのだろう。そこまで頑張ってください(こっちが年下なのに偉そうだと思うが、ほかに言いようが無い)。
- 2008-02-08 01:52:17
- 白石一文
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第135回芥川賞受賞作。
ずいぶん前に芥川賞全集をまとめ読みしたことがあって、ネットで確認したところ60年代後半から70年代の受賞作だったみたい。ぱっと思い出せるところでは庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、村上龍『限りなく透明に近いブルー』、古井由吉『杳子』、丸谷才一『年の残り』(作品は嫌い)、青野聰『愚者の夜』(ちなみに、この作品が受賞した第81回には村上春樹『風の歌を聴け』がノミネートされていたけれど、両者の優劣はともかくとして、『愚者の夜』は受賞にふさわしい作品と思います)といったあたり。タイプは異なれど共通するのは、見知らぬ内面を疑似体験したような、圧倒的な印象を受けたこと。
このときのインパクトがわたしの芥川賞の基準点になっていて、わたしごときがとやかく言うような筋合いではないけれど、最近読んだ芥川賞受賞作品は総じて小粒に感じられる。巧拙とは別に圧倒的な感じを受けない。60〜70年代にあったある種の暑苦しさが時代とともに風化しているだけなのかもしれないけれど。
そういう意味で、この『八月の路上に捨てる』は良くも悪くも期待を裏切らなかった。
主人公と同僚の日常的な仕事風景が、前景として臨場感を以って描かれる。二人のやり取りに交えて、主人公とその妻との出会い〜破綻が回想される。回想の方は、地の文主体にあっさりと描かれる。ただし、最後のデートの場面には臨場感が与えられていて、作者の演出意図なのだろう。
前景である現在と回想のからめ方に工夫があるのかもしれないけれど、とにかく淡々と進んでいく。締めくくりの捨て台詞で一気に作品に陰影を与える作戦のようだけど、こちらにまで響いてこない。もともとの弾力が乏しいから、逆方向に弾いても、はかばかしい反発力が発生しないような感じ。
各場面で人物の心理の陰影は伝わってこない。作家のスタイル(淡々として素っ気ない筆致)がそのように感じさせるだけで、その奥には深い色合いがあるのかも、などと思わないでもないけれど、結局のところさほどの奥行きは無いような気がする。

- 2008-01-30 01:29:01
- 伊藤たかみ
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続編『空中ブランコ』を先に読んでいた。
面と向かって「読んだほうがいい?」と訊かれたらとりあえず薦めておく。よくできた娯楽系短編集だと思うから。ひねくれ者でなければ、それぞれの楽しみを見出せる本だと思う。
伊良部という奇人を狂言回しに、面白おかしく現代人の心の淀みをあぶりだす。各話の主人公たちが抱える心の問題が、良くも悪くもありのままな伊良部の生き様との対比によって浮き上がってくる。
伊良部の使い方に奥田英朗らしいうまさを感じる。伊良部の中に悩める現代人に対する作者なりの処方箋を集約しつつも、必ずしも伊良部その人を全面肯定していない。だから、作者のメッセージはわりあいはっきりしているけれど、押し付けがましさはまったく無い。このバランス感覚は素敵。
ただ、ちょっとひねくれているわたしには食い足りない。物語りは常に決められた枠の中で展開するから、何作か読むうちにまんねり感が頭をもたげてくる。伊良部の型破りさも、型にはまっている。
収録5作品は粒がそろっているけれど、一番好みなのは『フレンズ』。

- 2008-01-14 23:26:07
- 奥田英朗
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小市民シリーズの第一作に当たるらしい。
既アップの古典シリーズの2作品『氷菓』『愚者のエンドロール』と同じく、ミステリー風青春小説というノリ。
ここでのミステリー風とは、たとえて言えば、本式のイタリア料理とは呼びがたいのだけれど、トマトジュースとかイタリアンパセリとを使ってそれっぽく仕立てられた料理をイタリア風○○と呼称するのと同じ。
いや、ミステリー小説として売られているようだし、そうすることになんら異論は無い。だいたい、これに限らずジャンル分けすることにさして関心は無いのだから。ただ、オーソドックスなミステリー小説の面白さ、わたしはそれを謎解きの面白さと考えているのだけれど、その種の面白さを期待して手に取ると、物足りない方向で裏切られることになると思う。むしろ、ライトな青春小説として手に取るほうが無難。
ミステリー作家として、というよりも、単にストーリーテラーとして未熟な感じがする。もちろんプロの作家としては、ということだけど。
この人の作品を読むのは4回目で、いずれも物語として落ちきっていないような物足りなさを感じたけれど、中では本書『春期限定いちごタルト事件』が一番まずい。「ストーリーがようやく動き出した」と思える段階で、ブチッと物語は終わる。
気を取り直して作者の狙いをトレースしてみて、「ここがクライマックスだったのか・・・」「これをどんでん返しと感じて、痛快に思わなければならなかったのか・・・」などど振り返ってみたけれど、そのひとつひとつが小ネタすぎて無理。
この作家が刺激的なネタで読者を煽ることを意図的に避けている、ということは理解しているつもりだけれど、それを考慮してもなお、根本的にストーリーテリングの弱さを感じる。
でもこの作風は嫌いではない。上に書いた物足りない点は、その前に読んだ3作を通して予期できていたことで、それを織り込んだ上で本書を手に取った。
能天気に明るい作風ではなくて、暗かったり重かったりの要素も入っているけれど、全体の味付けは軽くて口当たりがいい。嫌な感じの刺激が無くて、楽に読める。こういう文体は他にもあるけれど、中でも米澤穂信の語り口はしっくりとくる。
この年齢になると、リアルな高校生活や中学生活に感情移入するのは難しい。あるいは、やろうと思えばできるけれど、やけに面倒くさく感じる。あんまりリアルでない方がとっつきやすい。でも、リアリティが乏しすぎると嘘臭くなる。作り物であることを承知の上で、束の間登場人物たちに入り込むことを楽しみたい。米澤穂信の語り口とか、人物や事物との距離のとり方は好ましく感じられる。いまのところは・・・

- 2007-12-31 18:52:30
- 米澤穂信
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村上春樹の新しい本は久しぶり。新しいと言っても、発刊から既に2年以上経過しているわけだが…
自らの芸風を確立し、世界規模で支持されるようになった作家が、余裕を持って書いている。芸の力は揺るぎない。
しかし、かつてその芸に輝きを与えていた何かが…相当程度失われてしまった。積み上げられてきたスタイルは形骸化し、新しい村上春樹らしさと見受けられる三人称語りまたは濃度の薄い一人称語りは練度が低く響いてこない。
詳しいことは分からないし、おそらく小説の中で率直に語られたことはないと思うけれど、いずれにしてもかつての村上春樹は「他者や取り巻く世界をうまく理解できない、ないしはそれらとうまくかかわれない」という状況にあって、そんな状態を分析・評価・批評を交えず、というか入念にそれらを排除し、実感とか感覚を言葉として積み重ねることで自己表現を試みていた。見方を変えれば、うまく理解できないもの(=他者や取り巻く世界)をもっともらしく理屈で処理することを由とせず、実感を込められる言葉やイメージのみで語ろうとした(そのぶん自閉的になったけれど)。その試みは真摯かつ徹底的なものであり、アーティスト名やブランド名の羅列、リズミカルで心地よいけれど空疎な会話等々の軽薄な(?)外面的特徴にもかかわらず、村上作品に独特の芸術的リアリティ(?)をもたらしていた、と思う。
このアプローチは80年代に頂点を迎えるが、作家の表現者としてのプライドと意欲がそれに長く安住することを許さず(推測)、90年代前半の労作『ねじまき鳥クロニクル』三部作の中で劇的な変容を遂げた。それまで裏方であった(感覚、感情、華麗な表現などなどを下支えしていた)観念が前面に張り出して来た。
新たに打ち出された方向性は急速に強まり、過去の文体や修辞法を保持しつつ、技巧的な観念小説として花開いた。観念的ではあっても、理屈をむき出しにせず比喩や連想や幻想を駆使した行き方には、依然としてこの作家のこだわりやセンスが感じられた。
が…『ねじまき鳥クロニクル』第三部には産みの苦しみと呼びたくなるような息苦しさとそれを乗り越えた力強さがあったけれど、次第に村上春樹の紡ぐ言葉は軽くなってきた。かつて「僕」や「ぼく」に思いを託して言葉を紡いでいたときのような力強さも、華やかさも、浸透力も後退していった。
理屈の上での進化は、必ずしも作家としての進化につながらない、と思う。たぶん、一所懸命に自分を語ったり表現しようとしていた頃の彼ほどには、演出者として一歩ひいて振舞う彼は興味深くはないのだ、わたしにとって。
“語り”という切り口から言うと、かつての村上春樹は一人称語りにこだわり、その道では超一級の語り手だった。しかし、三人称語りの語り手としては、まあ「なかなかいいね」止まりだと思う。そして一人称語りにかつての精彩はなくなっている。
『偶然の旅人』『ハナレイ・ベイ』『どこであれそれが見つかりそうな場所で』『日々移動する腎臓の形をした石』『品川猿』の五篇が収録されている。世の中に出回ってる短編集たちを交えてランキングするなら、中の上あたりにはなるのかもしれない。あるいは、村上春樹を知らない人が手に取れば、「風変わりで面白い作家がいるな」くらいは思うだろう。
ただ、だらだらと上述したとおり、わたしはいずれの作品にも感銘も感心もしなかった。よく言えば“肩の力を抜いた”だが、村上春樹だったらこのくらい書けて当然だろうし、どちらかというと手を抜いているように読める。
たとえば、『偶然の旅人』では、前置きの語り手自身の体験と、その後のメインの物語にズレがあって(「人生に影響のない不思議な出来事」と前振りしながら、実際のエピソードは人生に影響を与える出来事)、そのことがインパクトを緩慢にしている。プロットが煮詰められていない。
『ハナレイ・ベイ』では、多用される会話の嘘っぽさが鼻につく。また、この種の三人称語り小説で重要な、各キャラが作り物っぽい。この作家はもともとキャラ作りのキャパが乏しいのだ。過去の名作を振り返っても、「僕」とそれにかかわる女性たちには存在感があるけど、それ以外のキャラは人工的。三人称語りによってもともとあった弱点が露呈している。
『どこであれそれが見つかりそうな場所で』は、最初こそ状況設定に期待しかけたが、「私」を謎めいて描くことの効果が疑問。軸足の置き所があいまいなので感銘も半端。
『日々移動する腎臓の形をした石』は、この人の小説としては保守的な傾向で、“らしい”けれどそのぶん新鮮味はない。
『品川猿』は、他愛のないファンタジーの短編として読むぶんにはいいけれど、短編集の掉尾を飾るには物足りない。これだけが書き下ろしで、この短編集の“肩の力を抜いた”持ち味が色濃く出ているのかもしれない。
上にも書いたけど、村上春樹は、創作者としての進化を試みて、現在のスタイルに至った。何にしてもその姿勢には感服する。しかし、理屈の上での進化が作品の魅力アップに必ず結びつくわけではない。
さらに、世界的規模で支持を得つつあることが、創作上ポジティブに作用していた彼の意固地さ(あるいはハングリーさ)を減退させているのかもしれない。あるいは加齢による後退か?あるいは、魔がさしただけか?いずれにしても、かつての作品群からすると、『東京奇譚集』は脇が甘くて、馴れ合い的に緩い作品集と感じた。村上ファンの方、失敬。

- 2007-10-08 14:04:28
- 村上春樹
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印象的だった『マルドゥック・スクランブル』の続編。ただし、描かれているのは『マルドゥック・スクランブル』より前の出来事。前作同様3分冊。
本作の主人公は『マルドゥック・スクランブル』の敵役。『マルドゥック・スクランブル』を読んだのは1年4ヶ月前なので、頭の中でつながるまでに少し時間がかかる。が、どうやら前作を知らなくても支障無さそう。
文章は美しくない。うまいとも思わない。ただ、記号を駆使した表現にはスピード感があるし、熱気を帯びた文体には強い牽引力がある。
洗練されない前のめりな文章に、この作家の姿勢があぶりだされているのか(いい意味で言ってます)。
『マルドゥック・スクランブル』でも立ち上がりの鈍さを感じたけれど、本作はさらに鈍い。3分冊のうち2冊目の半ば頃までは、面白さを鈍重さが上回る。入り組んだ人間関係の煩雑さがこれに拍車をかける。
しかし、それ以降は力強いドライブ感で一気に読ませる。
『マルドゥック・スクランブル』ではヒロインである少女の覚醒の物語が圧巻だった。SFというジャンルを超えた面白さがあった。
一方の『マルドゥック・ヴェロシティ』は、SF、サスペンス、バイオレンス、ミステリーなど複数の顔を持つし、主人公の葛藤には説得力があるけれど、素性としてはジャンル色の強い作品。
前者は万人に勧めたい作品だけど、『マルドゥック・ヴェロシティ』はこの手の小説が好きな人たちにとって楽しい作品、と思う。

- 2007-09-25 14:55:02
- 冲方丁
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先日記事をアップした『氷菓』に続くシリーズ第2弾。
微妙な読後感。
この作家の魅力が、キャラの立たせ方と明快で親しみやすい語り口にあると考えれば、期待は裏切られない。
ただ、『愚者のエンドロール』は前作『氷菓』に比べて推理小説としての色が強く出されているけれど、演出面、(ミステリーとしての)論理面での弱さゆえに、裏目に出ているような気がする。
(以下ネタバレ)
まだシリーズ2作目だからキャラの鮮度は色あせておらず、相変わらず楽しいけれど、キャラ依存度高すぎ。
たとえば、千反田がウイスキーボンボンで酔っ払うくだりでは、ストーリー展開上いろいろな仕掛けができるはずたげど、結局酔った千反田のキャラ萌え描写に終始。
密室の謎解きは一見論理的っぽいけれど、個人的には違和感があるし、なによりも一連の出来事の仕掛け人「女帝」の行動に説得力が無い。というか、馬鹿げている。ご都合主義丸出し。
単調に陥るのを救っているのが終盤のどんでん返しで、ミステリー的な興奮は乏しいものの、主人公を含めた4人組のやりとりは微笑ましくも楽しい。こういうところに、作家のセンスの良さを感じる。
割り切って読んでいるから、この作家の持ち味を楽しんだけれど、評を書くとなれば辛口にならざるを得ない作品。
3作品を読んだ限りでは、この作家は生臭くないミステリーを目指しているようで、方向性は興味深いのだけど、死体や血糊やおどろおどろしい因縁の力を借りないのであれば、もうちょっとストーリーテリングをパワーアップしたほうがいいと思う。

- 2007-09-06 22:58:42
- 米澤穂信
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